父が成仏できるよう、ずっと鐘が打ち鳴らされている。
ここ能満寺は、父たちがもう20年も前から墓地を買って檀家でいたところだ。
家族葬だから、母と私の家族と弟のところだけだから、9人しかいない小さなお葬式。
お坊さんは鐘を打ちながら、
あーあーううー、ううーうおおーお、
と、母音の発生練習をしているようなお経だ。
10分ほどでカンカンが鳴りやむと次は初七日の法要ってことで、またカンカン10分ほど拝んで鐘を鳴らしてもらって、30分もかからずに葬式と初七日はおわった。
「あの木魚は臨済宗では叩かないんですか?そちらに木魚があるようですけれど」
私は、お坊さんの傍にいってお尋ねしてみた。
「おたくさまは、もごもごが少なかったもんですから木魚は叩かないんです」
「えっ?何とかってそれ、お金のことですか?お金が少ないと木魚叩いてもらえないんですか?」
お布施の金額によって鳴り物の数が違うんだそうだ。
こういうお寺での金額はあってもないようなものだと聞いていたんで、それにうちはお金に余裕があるわけでもない。
30年寝たきりの父を母一人で世話をしてきたんだ。
金額の話のとき、50~60万と言われ、それは無理だからと20万も負けてくれたんだ。
詳しい説明はなかったけれど。
あの木魚が叩かれないと父が成仏し損なってるってことはないんでしょうか?」
鐘だけでも、有難いお経を上げているんで成仏はできているんだそうだ。
そうなんだ。
鐘や木魚の鳴り物が無くたって成仏って出来るんだ。
じゃ、木魚ってお金をたくさん出してくれた人たちに叩かれるってことになる。
既に骨壺の中で眠っている父に鐘や木魚の音が聞こえるわけでもなく、あの鳴り物は生きている私たちの気持ちを安らかにするためのものなんだ。
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